糸芭蕉の栽培・糸作り・染め・織りと手作業にこだわっている小さな「芭蕉布」工房です。財布やバッグなどの製品も作っています。

じゅんび



  この項は、森山高史「木洩れ日だより」より抜粋のほか、各コラム、
  各受賞作、未発表作など、順不同、新旧ごっちゃの創作ページになっています。
  「芭蕉布こもれび工房」と、直接の関連はありません。
   ( 目次は本文とリンクしていません。目次のあと、全ての本文が続きます)

  1. 二層のラオスコーヒー
  2. 無礼者
  3. 浅き夢見し
  4. ぼくたちの弁当会
  5. 遠きにありて
  6. 父と息子の食堂車
  7. 娘と孫と「おおきなかぶ」
  8. 製糖の季節
  9. キビ畑テント保育園
  10.
  11.
  12. 夢の嘘(俳句)
  13. 雪しまく(俳句) 2018.2
  14. さみだるる(俳句) 2018.7 new
  15. 山眠る(俳句) 2018.7 new
  16. 此処(haiku)
  17. 飄々と(haiku) 2018.3
  18. 風の宿り(詩)
  19. 藁のぬくもり(歌謡アルバム)
  20. 風来(短歌)
  21. 七堂伽藍(短歌) 2018.2
  22. 極上の酒(短歌) 2018.6 new
  23. ねえ女将さん(短歌) 2018.8 new
  24. ひとりぼっちのリュウ(創作昔ばなし)
  25.
  26.
  27. ゴジラだったころ
  28. コミューン伝説
  29. アイヌ語入門(書評)
  30. 奥ゆかしくて
  31. 新郎と青年
  32. ストーブ列車
  33. スロベニアのオバちゃん
  34. 民族の祭典
  35. イムジン河 水清く
  36. 旅は二人三脚
  37. 旅の重さ・旅の軽さ
  38. 風に酔い、風に舞い
  39. 俺達のほしいものは(楽譜)
    芭蕉の里(楽譜)
    平原暮色(楽譜)    
    道―MICHI―(楽譜)
    少年(楽譜)


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1.
   二層のラオスコーヒー

 ラオスのアイスコーヒーは、二層に分かれています。グラスの下に練乳を厚く敷き、上からコーヒーを静かに注ぐのです。白と黒で見ばえよく、几帳面なコーヒーです。
 道ばたの屋台でも売られています。プラスチックの椅子に坐って、ひとり飲んでいました。スプーンで混ぜてから飲むのが流儀と思われますが、私は二色の境目あたりにストローの先を浮かせ、口の中で混ざるようにして味わっていました。
 屋台の後ろは寺院のようで、子どもたちが境内で遊んでいます。時折、キャッキャと大騒ぎになります。遊具も道具も見あたりません。何をしているのかと、しばらく見ていました。ラオスは時間がゆっくり流れていき、なにをするにも急がないことが、この国で快適に過ごせるのだと、分かるようになっていました。
 境内に高い木があり、風が枝を揺らし、不規則に葉を落とします。その一枚の葉っぱを狙い、子どもたちが競って、つかみ取る遊びでした。大きい少年は、十歳くらいでしょうか。敏捷で、身長差も有利に働き、葉をつかむ回数が多いようです。ひときわ小さい少女は、五歳か六歳に思えます。葉の下に走っていくのも遅く、一枚も取れていません。年齢に差のある、六人の子どもたちです。
 気まぐれな風が、落ちていく葉っぱの向きを急に変えました。出遅れていた少女に向かっていきます。進みすぎていた少年たちは慌てて戻りますが、少女は見事にキャッチしました。全身で喜びを表した少女は、居合わせた私にまで笑顔を見せてきました。少年たち全員が拍手をして、少女の快挙をたたえます。
 とても美しいものを見た気がしました。物がなくても、豊かに遊んでいます。手元のコーヒーは氷も全部溶けていました。白黒二つの層は完全に混ざり合い、子どものころによく飲んでいたコーヒー牛乳の色になっていました。


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2.
   無礼者

 国境を越えてオーストリアに入る列車は、スロベニアのその小さな駅から、一日に朝一本だけだった。ブレッド湖から駅までは、七時のバスで十五分。余裕で駅に着く。
 私たち夫婦は、湖を堪能した。歩いて一周もした。手漕ぎボートで、島にも渡った。前日の午後には、行くところがなくなって、予行演習の気分で駅までバスに乗り、普段は買わない指定席の切符まで購入した。
 バスは、なかなか来なかった。湖畔の一角にあるバス停で、ほかに人影はなかった。まあ、経路も所要時間も、前日の予習で分かっている。まだまだ、時間に余裕がある。
 バスは、まだ来ない。予定時刻より、かなり遅れている。もし、列車に乗り損なったら、また一日を湖畔で過ごすことになる。前日に、しっかり確認したはずだ。念のため、もう一度、時刻表を見てみる。やはり七時台には、そのバスだけで、次は一時間あとになる。
 前日には気づかなかったが、バス時刻の右上に、小さな丸印がある。予定しているそのバスだけに付いている。時刻表の下の欄外に、その丸の意味が書かれている。英語ではない。スロベニア語なのだろうが、突然、私は意味が理解できた。休日運休の印だ。もう、確実にそうだ。その日は、日曜日だった。
 この事態を妻に伝え、急遽、ヒッチハイクを試みることにした。まだ大丈夫。乗せてもらえたら、駅までは一本道みたいなものだ。
 ところが、車が来ない。一台も通らない。列車の時刻が迫ってくる。いま、ヒッチできても、ぎりぎりになる。ようやく逆方向に一台行ったが、駅方向に向かう車は来ない。
 列車の発車十分前になろうとしても、まだ通らない。私は完全に諦めた。いまヒッチできたとしても、もう間に合わない。
 と思った矢先、車が来た。無理だ。私は手を挙げなかった。ところが、車の方で止まってくれた。なんと、妻が止めていたのだ。
 普段着の男性と、息子らしき幼い子供が乗っていた。怪しい英語を使って、いまの事情を説明した。発車時刻を聞かれ、そのまま答えた。指定券の払い戻しができるかも知れないので、駅には行ってみることにした。心は沈んでいた。
 彼は、スピードを上げ始めた。いや、話が伝わっていないようだ。もう、間に合わないのだ。危ないことは、しないでほしい。
 駅の手前、踏切で止まった。やはり、発車時刻は過ぎている。踏切を越えて、すぐ右が駅舎だ。ホームに列車が止まった。あれあれ、運転席は、国境方面に向いている。長い編成で、ローカル列車ではない。これだ。予定していた、オーストリアに向かう列車だ。国際列車は、しばしば遅れると聞いたことがある。遅れて、停車しているのだ。
 列車はすぐそこなのに、踏切は閉まったままだ。通過するまで、閉めているようだ。ああと溜め息が出る。すると、彼は車から降り、私たちにも降りるよう合図した。彼は列車を指して、「ゴー」と叫んだ。踏切をくぐって、線路上を列車に走れと指示したのだ。
 私たちは躊躇しなかった。「関所」を破り、ザックを抱えたまま線路を走った。なんとか発車前、先頭のドアにたどりついた。息があがり、ドアの内側で二人とも坐りこんでしまった。列車は、すぐ出発した。
 しばらく坐りこんでいた。大変なことに気づいた。列車は、さっきの踏切を通過して、先へ向かう。踏切では、あの彼が、無事に乗れたか気にして見守っていただろう。窓から手を振って感謝を表現するのが、万国共通のニンゲンのすることだ。私たちは、なんと礼儀知らずだったろう。彼はいまごろ、隣の幼い息子に、無礼な東洋人カップルのことを愚痴っているかもしれない。
 湖の印象など飛んでしまって、唐突に不本意に、スロベニアの旅が終わった。手続きもなく、列車はどうやら国境を越えたようだが、私の動悸は一向に治まることがなかった。


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3.
   浅き夢見し

  韓流ブームの遙か以前、1ヶ月かけて韓国をぐるっと旅した。その最後がプサンだ。連絡船で下関に渡る。
  韓国では貴重なユースホステルが、プサンには有った。 最後になって、初めて日本人と同宿になった。それまで旅先で全く見かけなかったので、日本語で喋れる相手がいてくれて、楽になっていた。
  彼は「ジエータイ」を辞めたばかりで、旅は初めてとのことだ。韓国の言葉は一切読めず、喋れずで、街の食堂に入れきれないと言う。 確かにメニューはハングルで、 壁に高く貼られているから、 指で示すことも難しいだろう。 多少なりとも理解できている小生を、そのことだけで「尊敬します」とおだててくる。十歳以上、年下かも知れない。彼を連れて、街へ食いに歩いた。

  次の日、予定が空白になった。 あとは翌日の連絡船に乗るだけだ。そこで、行き当たりばったり、 バスで郊外に出てみることにした。 韓国全土を網羅した市外バス時刻表を調べてみる。この本は本当に重宝した。もちろんハングル表記だが、そのころは「自由に」読めるようになっていた。
  1時間ほどで行ける「ミリャン」と読める場所に決めた。 近くのターミナルから乗れるようだ。 と、そこで昨夜の彼が同行を申し込んできた。普段なら単独で行動するのだが、珍しく頼られているので承諾した。 ジエータイといっても、「元」なのだ。ま、いいか。 隊員であったなごりなど見られない。 さすがに長髪ではないが、すっかりアイドル風に変身している。気になるほどのこともない。この時代、イケメンなんて言葉もなかったし。

  町はずれに古い楼閣が残っていた。あとは予想通りの小さな田舎町だった。こういう雰囲気は嫌いではない。
  その全景を見下ろすのに格好の丘があり、 坂道を登っていくと、一番上は女子高校になっていた。 学校の敷地との境まで行き、おだやかな田園風景の広がりに見惚れていた。 先ほどの楼閣が小さく見えている。
  チャイムが鳴り、 少し離れた横のグランドから女生徒の一団が校舎に戻っていく。私たちの脇を通っていくとき、何人もが怪訝そうに見ているのが分かったが、こちらはつとめて平静を装っていた。
  いくつかのグループが過ぎたあと、 最後にジャージ姿の女教師がやってきた。韓国語で何か聞いてくる。 というより、尋問してくる。 不審人物発見ということだろう。
 この旅で、それまで何回尋問を受けてきただろう。「北」との緊張時代なので、 バスでも道でも、 警備兵と警官から絶えず身分を問われていた。ひとり旅の習慣がない国のようで、単身バックパッカーの私は目立つようだ。 パスポートを見せて、言葉が分からない振りをすれば解放してくれる。日本人旅行者が珍しい時代だったのだ。そういえば、安宿に着いて5分もしないうちに警官が来たこともある。 これは、宿の人間が通報したとしか考えられない。スパイ発見ともなれば、国家より巨額の報奨金が与えられるので無理もないか。いや、客に対し、さすがにこれは失礼と思う。
  閑話休題。女教師に対し、韓国語、英語、分からない部分は日本語も交えて、怪しいモノではないと熱弁をふるう。 校門の外にいるのだから構わないはずだ。隣の彼はといえば、もちろん無言で立ったままだ。
  そのおかしな言葉を操る奇妙な「外国人」に女生徒が興味を示した。何人もが戻ってくる。完全に囲まれてしまった。 ここは友好一番の見せ所。 いぶかしげな教師の視線から逃れるべく、若い彼女たちに韓国語で愛嬌を振りまいた。
 「コンニチハ。ハジメマシテ」
  その程度の会話力しかない。返事のかわりに、ドッと黄色い笑い声。冷ややかな笑いとは明らかに異なる。
  会話能力があるんだと大きな勘違いをされ、質問を始めてきた。 そこへ、年配の別の教師が駆けつけた。 事情を悟って、日本語で尋ねてくる。植民地時代に日本語を強制された世代だ。 こちらが話したことをみんなに通訳する。その教師が日本語を話せることに生徒たちは驚いている。 学んだはずの歴史的背景をその教師に繋げられなかったようだ。どうやら、危険人物でないことは証明された。
  最初の教師も笑っている。 やれやれだ。 ところが、今度は生徒たちから連続して、通訳を介しての質問攻めだ。
 「なぜ旅をしている」「兄弟なのか」に始まり、「仕事は」「結婚は」と身元調査になる。あげくは、「寒いか」「空腹か」まであった。 そして、こちらが真面目に答えるたびに、何がおかしいのかドッとくる。
  日本語になっているので、彼が参加してもいいはずなのだが、 萎縮したように黙っている。 みんなの視線や状況に、緊張しているのだろうか。
 「なにか感動したことは」と尋ねられ、全く芸のない答えなのだが、
 「女性がとても美しいのに感激した」と、やってしまった。 普通なら、さむ〜くなる。 だが、受けた。 みんな顔を見合わせてキャッキャと笑い、収拾がつかないほどだ。ただ、それは本音だった。
  解放されたのは、 授業開始のチャイムが鳴ったときである。 手を振って別れることとなったが、 正面校舎の二階、窓という窓からも沢山の手が振られているのを認めたときは、冷や汗が出る思いだった。うろたえた。
  なにやらスター気分に目覚めて、丘を下りて行った。まだ後ろ姿も見られているのではないかと、無理に背筋を伸ばして歩いた。もう、おっさんに近いトシなのに、 異国の十六、七の娘たちに騒がれ、 浮かれてしまった。若く見せる帽子が正解だったのかなとニヤける。
  まてよ。彼の存在だ。昨今の芸人コンビでもよくある話だ。芸達者な相方ばかり目立つのに、立っているだけのイケメンくんが女性からの人気を博す。それでトータルして、コンビが騒がれる。これだ。このパターンだ。みんな、元隊員の彼のおかげだったのだ。女生徒は、イケメンの彼が目当てで騒いでいたのだ。こっちは、おこぼれにあずかっていたというわけだ。今にして、よ〜く理解できる。世の中の仕組み、そうなっているのだ。

  気づくのに、年月を要した。 彼女たちも、今では韓国のアジュンマ、おばちゃんになっている。日本人も見慣れたことだろう。 日本のおばちゃんたちが美形の韓国人スターに夢中になったと同じで、彼女たちも美形の異国人を追っているかも知れない。 あのとき、美形の方だけに目がいっていた可能性は、とてつもなく大きい。小生の「熱弁」は少しも報われていなかったのか、もう確かめるすべはない。
  浅き夢見し。ツワモノどもが夢の跡。あ、これ、場違いになっている。孤軍奮闘。獅子奮迅。‥駄目だ。締めの言葉が浮かばない。
  さよなら韓国、またきて四国。おお、これ、これだ。どうにか最後に、ぴしっと決まったぜ! ん‥?


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4.
   ぼくたちの弁当会

 父の仕事の都合で、名古屋から大阪に転校した。まちなかではなく、郡部に属する村の学校だ。小学生の私は、なかなか同級生になじめなかった。
 全国的には給食が普及していたころだが、その学校では弁当持参だった。私も、母の作る弁当を持って出かけた。昼休みになると、自分の席で食べるのだ。
 しばらくして、昼食時間になると、空席がいくつもできることに気づいた。この学校では、昼休みに自宅まで自由に帰ってもよかった。断りも必要ない。いまではあり得ないことだし、当時だって、一般的に認められてはいなかったろう。
 このシステムは、私にも便利だった。引っ越しを機会に、思い切って、家にテレビを入れていた。昼の放送を見たくて、私は家に戻っていた。走れば五分で着く。走ることが苦にならない年齢だった。
 学校では、欠席する生徒が多かった。登校拒否ではない。農繁期に、家の手伝いをするためだ。田畑に出る場合もあるし、炊事や子守で使われる場合もある。親が、子どもを学校に行かせないのだ。貧しい村だった。
 昼休みに帰宅するのは、家で昼飯を食べるためだった。学校側も、そうさせていた。学校に弁当を持って来れない事情があったのだ。家でなら、どんなものでも食えさえすればよい。同じものを弁当にして教室で開けば、周りと比較されてしまう。その惨めさを味わうことが避けられたのだ。弁当らしい弁当が用意できない、農村の貧しさがあった。
 会社から用意された社宅は、駅の近くにあった。小さな駅だが、父の通勤には便利だ。私の家族は、地域と交わることが少なかった。私も、同級生と親しく交わる機会がなかった。
 遠足の日が来た。さすがに、誰もが弁当持参だ。昼食時間になり、山の頂上広場で、それぞれに別れて食べることになった。私は、一緒に食べる友達がいなかった。途方に暮れていると、ほとんど喋ったことのない同級生から誘われた。いつも、昼になると家に帰っている生徒だ。声を掛けてもらって、ありがたかった。
 その弁当を食べる輪は、全員が、昼に帰っている生徒たちだった。女子も一緒だ。どうやら、その仲間として、私も誘われたようだった。楽しい食事の輪だった。
 いつの間にか、おかずの物々交換が始まった。私の弁当は、盛りだくさんにおかずがあり、人気があった。交換に貰うおかずは、私が知らない種類のもので、初めて口にするものが多かった。無理して、なんとか食べた野菜料理もあった。
 女子生徒とも交換した。クラスでただひとり、私が意識している女子だった。弁当を近づけたとき、目と目が合った。普段は活発なのに、彼女は照れくさそうに笑っていた。私は、それ以上にどきどきしていた。
 みんなは、私を仲間と思っている。昼休み、校門を一斉に出ていくとき、同じ理由で帰宅していると思っている。笑顔で手を振って散っていき、一時間後に戻ってくる。その一時間、みんなと私は同じではなかったはずだ。気づくのが遅かった。
 私は秘密を抱えたまま、それからも同じ行動をした。校門を出るとき、あの女子生徒とは、特に大きく手を振って別れて行く。時間を調整して、彼女と同じタイミングで教室に戻れるようにもなった。遠足の弁当グループとは、みんな仲良くなった。
 みんなの秘密と私の秘密は、大きく違っていた。しかし、それを隠して、学校に順応していけた。遠足の弁当で食べたみんなのおかずは、人生で最高のご馳走だったのかも知れない。おいしかったように記憶が修正されていても、一向に構わない。
 その後、また転校することになったが、彼女ほど魅力があり、みんなほど親しめる生徒は、都会のどの学校にもいなかった。


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5.
   遠きにありて

  家の事情や自分の気紛れで、子どものころから引っ越しを繰り返していた。出身地を尋ねられても、あいまいにしか答えられない。小学生のころに五年間を過ごした大阪府下の村、そこを我が「ふるさと」と言ってはいるが…。

  その村へは、名古屋から越してきた。 六歳だった。新しい土地での生活が始まり、とまどったのは、なによりも大阪弁だった。 こいつをマスターしないことには、いつまでも仲間はずれになってしまう。テレビのない時代、土地の方言がすべてだった。 よその言葉、それも名古屋弁では、子どもの社会で宇宙人になってしまう。
  どうにか土地の子どものふりができるようになり、それからは快適な田舎生活になった。いつも訪ねて行ける親しい友達もできた。村ではあるが、「腐っても」大阪府である。 最低限の店もあった。情報もない時代だ、子どもにとって欲しい品などしれている。 駄菓子屋一軒あれば事は足りた。 平和だった。「子ども」を満喫していた。
  田植えの時季になると何人もが学校を休み、家を手伝った。ほとんどが昔からの農家で、地域の結びつきが強く、社宅に住むようなヨソモノは肩身が狭かった。祭りの「だんじり」を地区単位の子ども達で曳くというとき、自分はどこにも所属していないことを初めて知った。
  村へは、いろいろ行商がやって来た。その中でも、「ロバのパン屋」の蒸しパンときたら、文化の香りでいっぱいだった。都会の味と信じて、毎週その日が楽しみだった。
  夕方になると紙芝居屋のおっちゃんがやって来て、拍子木を打ち鳴らして子ども達を集める。五円だったか、十円だったか、 みんなからもれなく徴収した後で、いよいよ始まるのだ。声色をさまざまに変え、動かない「画面」を面白おかしくパフォーマンスするおっちゃんは、みんなのヒーローだった。あの紙芝居は、自転車の荷台にセットされていたような気がする。おっちゃんは、街のほうから自転車で来ていたのだろうか…。

  その後は、東京近辺を転々と移り歩いた。都会の空気になじめず、村での暮らしが懐かしい。そんな気持ちも手伝ったのだろうか、 現在は機会あって、南の島で田舎生活を送っている。
  突然、子ども時代のその村に立ち寄るチャンスがやってきた。沖縄から関西空港で乗り継いでヨーロッパへ向かうのに、接続の関係で一泊必要になったのだ。出発の前日に、大阪で時間の余裕ができてしまった。そのおかげと言えるだろうか、何十年ぶりかで「ふるさと」訪問ができることになった。
  名称が「市」に格上げされていたことで、少しは予想していた。 だが、目の当たりにする「ふるさと」の変貌ぶりには、度肝を抜かされた。とてつもなく巨大なニュータウンが出現していた。
  かつて住んでいた社宅はブティックと化し、 商店街の真ん中に位置するようになっていた。道はやけに広くなり、周辺に田も畑も見当たらない。 とどめは、 弁当を食べたあの裏山だ。山そのものが無くなっていた。かわりに百以上の公団住宅が建ち並び、「箱」で作られた迷路の森になっていた。ふるさとの村は、どこにもなかった。遠きにありて想うものだった。
  浮かれ気分は、すっかり無くなった。いつの間にか日も暮れて、駅へ戻ることにした。もう景色の色も消えていて、帰りの足取りは重かった。
  ふいに、当時よく訪ねた友達の家を探してみようと思った。かつての通学路を下っているうち、 昔のことを思いだしたのだ。引っ越してから交流はなく、今さら会おうという気持ちはなかった。ただ、前を通ってみたくなった。
  あった、あった。 記憶どおりの場所に、記憶どおりの家がそのままあったのだ。ひとつだけだが、自分と村をつなぐものが残されていた。救われたと思った。
  子ども部屋として遊んでいたあの窓に、あかりが灯っている。蛍光灯のはっきりした光ではなく、あったかそうな淡い電球のひかりが映っていた。
  懐かしい石の塀と石の門柱。今も同じように蔦を這わせている。あのころは鈍い光沢を持つ表札が埋め込まれていて、門柱に威厳を与えていた。さすがに入れ替わっている。そこだけ少々重厚さを欠いて、 表札には、あいつ自身の名前が黒々と書かれていた。


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6.
   父と息子の食堂車

 新幹線が開通する前の話だ。東京から名古屋へ行くには、「特急つばめ」で四時間以上かかった。
 愛知に住む母方の祖父が亡くなり、東京から父と二人で葬儀に向かった。母と妹は、祖父が危篤になった前日、先に発っていた。東京に残った寡黙な父と、父親の前では萎縮してしまう小学六年生の息子が、二人だけで「旅」をすることになった。
 なにも喋ることなく、ただ車窓を眺めていた。退屈きわまりない。かなり過ぎたころ、父から食堂車に誘われた。つばめ号は、客車特急から電車特急にモデルチェンジしたばかりで、食堂車を連結した最新式の列車だった。父はすでに、出張で何度か利用したことがあったようだ。もちろん、私にとっては初めての経験だ。
 父はメニューも見ずに、カレーライスを二つ注文した。出されたカレーは金属の皿に盛られていて、そこいらのライスカレーと比べ、高級感を醸し出していた。空腹だった私は、もくもくと食べた。食べている途中で、「うまいか」と、父が訊いてきた。私は、「おいしい」と答えた。父は自分の皿から、残りのカレーを分けてくれた。
 食べ終えると、父はコーヒーを二つ、追加注文した。やはり、メニューは見なかった。子どもが飲めそうなものを配慮することもなかった。コーヒー牛乳ならなじんだ味だが、本物のコーヒーは初めてだ。砂糖をたっぷり入れて、ゆっくり飲んだ。「うまいか」と、父がもう一度訊いてきた。私は黙って、大きくうなずいた。うなずいてしまった。
 大人のカレーは、こんなに辛いものか。大人の飲み物は、こんなに苦いものなのか。だが、私は苦痛ではなかった。コーヒーも、最後まで飲みきった。同級生の誰も経験していないだろう、食堂車での食事に満足していた。
 父との旅。父と二人だけの会話。一回限りの「事件」だったようで、その後、そういう機会はなかった。互いに、避け続けていたのかもしれない。寡黙な父と、父親の前では萎縮してしまう息子のまま、関係が変わることはなかった。
 語り合うこともないまま、父は病気で亡くなった。やがて、三十年になろうとしている。気づけば、父の亡くなった年齢に、いま私が追いついている。自分と同じこの年で、父は黙って逝ってしまったのだ。
 父の思い出は、ほかにもありそうなものだが、このときの「旅」だけが強く残っている。味の記憶は曖昧になっても、特急つばめ号の食堂車で、「おいしい」と返事した記憶は確かにある。はっきり私がそう言ったのだから、あのときのカレーとコーヒーは、辛かろうが苦かろうが、この上なくおいしかったに違いない。息子に食べさせたいという、父のカレーと父のコーヒーは、どうしても、おいしかった記憶で満たしてやりたいのだ。


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7. 
   娘と孫と「おおきなかぶ」

 娘が幼いころ、寝る前には毎日、絵本の読み聞かせをしていた。妻の読み方は抑揚がなく、たんたんと読んでしまうので、幼児には刺激不足のようだ。ここは、芝居っけたっぷりに読むのがいい。そういう習性の私がふさわしい。
 小学生のころは、学芸会の芝居の主役をしていた私だ。登場人物、登場動物になりきって、大袈裟にセリフを読んでいた。眠りにみちびくという大前提を忘れて、娘を興奮させていた。
 娘の最初のお気に入りは、ロシア民話の「おおきなかぶ」だった。畑の土から大きなかぶを引き抜く。それだけの話だ。おじいさんひとりではとても無理な、超特大のかぶだった。つぎつぎに助太刀を呼ぶ。おばあさんが後ろにまわって、二人で引いても駄目だった。孫も加わり、さらにイヌ、ネコ、最後にはネズミまで加勢にまわると、ようやく抜けるという、幼児向けの代表的な絵本だ。
「うんとこしょ」「どっこいしょ」の掛け声は、それぞれに成りきって読むので、ひとりで六役も使い分ける声優気分だ。本に書かれていないセリフも、勝手に足している。加勢するメンバーも、娘の友達や保育士さん、妻と私、最後の最後に娘自身も登場させてしまう。メンバーの数が絵と合わないが、そこはムニャムニャっとごまかしていた。
 夢中になって、絵本の世界に入ってくれた。何度も何度も読まされた。そんな娘だったが、成長してくると、私の語りと絵が違っていることを指摘するようになった。だんだん、この話の食いつきが悪くなった。
 さらに成長して、平仮名が少し読めるようになってくると、本に書かれた文字と私の語りの矛盾を突いてくる。字数に比べ、私の口から出るセリフが多すぎることにも気づかれた。ほかにも絵本はたくさんある。もう少し複雑なストーリーを好むようになった。自分で本を選ぶようになっている。「おおきなかぶ」の役目が終わった。全く読まなくなってしまった。

 およそ三十年が過ぎ、押入に積まれた段ボールから探し出されて、「おおきなかぶ」が復活した。
 縁あって、娘は山形で新生活を始めていた。子どもが生まれ、正月には家族で、沖縄の我が家に帰ってくるのが習慣になった。私たちの初孫である。そこで、絵本の読み聞かせを頼まれた。「じいじ」の出番である。カラオケと同じように、勝負絵本がある。十八番は「おおきなかぶ」ということになる。
 当然、登場人物は孫娘に合わせている。我が家の番犬が加わった。私たち「じいじ」「ばあば」は、最初から絵本に登場している。顔立ちと体型がロシア人らしく描かれているが、孫から異議は出ない。
「うんとこしょ、どっこいしょ」と、普段でも言っていることをセリフにする。かぶを引っ張る列の最後尾は、孫娘につとめさせる。私と孫と一緒になって、「うんとこしょ、どっこいしょ」と声を合わせ、「抜けたあ」と大喜びするのだ。
 子育て経験は身に染みついていたようで、あのころの読み聞かせテクニックは衰えていなかった。隣の部屋では、娘夫婦と妻が笑っている。久しぶりに会って少し距離のあった孫とも、急接近できるようになった。なんともありがたい絵本だ。
 半年後か、一年後か、次に孫が来たときは、「おおきなかぶ」のポジションも変わっているだろう。それが成長で、通過してしまえば、その絵本は完全に忘れられてしまう。
 しかし、そこはロシアを代表する古典絵本だ。孫の下に弟か妹ができたとき、また威力を発揮するだろう。もちろん、私というエンターテイナーを通してだ。芸を極めていく。絵本は、読み手を選ぶのだ。
 さらに、もう一世代つぎの曾孫まで大丈夫だろうか。本の心配というより、私が元気で生きているかどうかという種類の「大丈夫」だ。

 明日、孫が山形へ帰るという日、いつも以上に登場人物、登場動物を加えて、大サービスをした。縫いぐるみのキリンやら、ほかの絵本の子どもやらも加勢させ、どんどん喋って、できるだけ話を長引かせていた。
 みんなが帰ったあと、おもちゃと絵本を段ボールにまとめた。「おおきなかぶ」を一番上に置き、ガムテープで閉じた。「うんとこしょ」、「どっこいしょ」と声に出して、押入の上の段に押し込む。セリフのときと違って、元気のない、弱々しい老人の声だった。


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8.
   製糖の季節

 彼女の沖縄の実家へ挨拶に行った。四十年近くも前の話だ。実家は兼業農家で、ちょうどサトウキビの収穫期だった。頼まれたわけでもないのに志願して、一日手伝った。
 想像を超える重労働だった。手斧で倒し、荒縄で結い、肩に担いで道まで運ぶ。還暦近い彼女の両親が楽にこなしているのに、私は休みがちだった。軟弱な都会人であることを認識させられた。しかし、苦痛ではなかった。空と海に囲まれた畑で、みんな笑いながら作業をしている。土の感触が新鮮だった。
 肩や手の平を擦りむけながら、なんとか一日を終えた。車を借りて、彼女と買い物に出かけた。沖縄は、まだ右側通行だった。街に出る途中、「ぷう〜ん」と表現したくなるような「甘い」香りがただよった。製糖工場の黒糖を作る匂いだという。この時期、二十四時間フル稼働しているらしい。テレビやガイドブックでは分からない、沖縄らしい体験をしているなあと感慨にふけっていた。
 彼女は助手席の窓を閉め、私の窓も閉めさせた。その香りが好きではないと言うのだ。小さいときから、いつも嫌いだったと言う。楽しくない記憶に繋がっているのかも知れない。くせのある匂いで、好き嫌いが別れる。
 実家に戻ると、宴会が始まっていた。初めて泡盛を飲まされ、酔いがまわった。社交辞令なのは分かるが、よく頑張ったと誉められた。調子に乗ってしまった。こっちの畑でずっと働いたらの提案に、「はい」と強く返事したのだ。無責任な決意表明である。
 半年後、東京から移住し、彼女と所帯を持ち、サトウキビ農家の見習いになっていた。しばらくすれば農作業に順応し、きつさにも慣れ、ときどき呆ける日も出てくる。
 次の収穫期、工場近くを車で通ると、「ぷう〜ん」とあの香りが入ってきた。あの日の光景、あの日の決意が浮かんできて、シャキッとなった。私のサトウキビが香っている。ひとりだったので、もちろん、窓は全開にした。


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9.
   キビ畑 テント保育園

  大宜味に移って、その翌年の話になる。

  娘がようやく保育園に慣れたというのに、 一ヶ月休ませることになった。 前年まで住んでいた具志川の「小屋」がそのまま使え、家族で泊まり込んで、実家のサトウキビを収穫することになったからだ。 妻の実家では、毎年、トラック五台分ほどのキビが出されていた。
  沖縄でウージトーシ(キビ倒し)は、冬場に行われる。それまでも手伝ってはいたが、この年は事情があって、 全部を自分たちで仕切ることになった。
 キビ刈りは忙しい。製糖工場へ運ぶトラックが来て、指定された日に、一台分約七トンのキビを出す。そのスケジュールに合わせるため、通常は助っ人を頼み、五、六人で一気にかかる。だが、私たちは二人だけでやることにした。経費を切り詰めたのだ。 正確に言えば、費用を捻出できなかった。

  さて、問題は娘の保育だ。 預ける場所も見つからず、まあいいかと、畑に同行させるよう決めた。 片隅に一人で過ごしてもらう。
  キビ畑の中はジャングル状態だ。 三メートル以上にもなるサトウキビが台風の影響を受け、曲がりに曲がって密集している。 一メートルの距離だって、まっすぐ歩けない。 「ざわわ、ざわわ」なんて、 悠長に歌う気分ではない。
  勝手に遊ばせたら、迷って出られなくなる。雨だって降るだろう。昼寝の場所も必要だ。それらの難問解決に、テントを使うことにした。小型の旧式テントで、一度だけ家族キャンプを楽しんだことがある。それを畑に置いて、保育園にしようというのだ。

  さあ、初日。 娘は不安もなく、遠足気分だ。もちろん、弁当、おやつ、水筒も準備した。 寝袋を敷いたテントに、お気に入りグッズを段ボール一箱分持ちこむ。 人形たちに、友だち役を務めてもらおう。
 保育園に通い出して、絵本を読んでもらうことが好きになっていた。そこで持ちこんだ最終兵器がテープレコーダーだ。父親特製のオリジナルテープが付いている。絵本の文章を録音しておいて、娘が一人で楽しめるよう工夫したのだ。
  テープは朗読だけでなく、ページをめくるようにとの指示も入れる。厭きないよう、たっぷり感情移入して読んだ。 この作業には照れた。途中からは娘と一緒に、笑い声や会話も混ぜたライブ版として、 何度も録音を重ねて完成させた。準備万端、抜かりはない。

  こうして、テント保育が始まった。 意外にもすんなり溶けこんで、娘は新しい「保育園」を気にいってくれた。さびしがることや、退屈する様子もない。 自分だけの時間と空間を楽しんでいた。 独立した「新居」が手に入ったのだ。
  ひとりっ子なので、 自宅ではいつも、両親のどちらかが相手をしていた。 親の方がべったりしていたのかもしれない。 ひとりで遊ぶ姿を見るのは新鮮だった。「自立」なんて大げさな言葉まで浮かんでくる。
  雨にも負けず、風にも負けずのテント保育だった。 気になって、水分補給などを名目に、母親と父親で交互にテントを覗きに行く。しかし、娘は自分の世界に没頭していて、何も心配することはなかった。
  目覚まし時計が鳴ると休憩時間だ。お茶にするよう、娘が知らせに来る。おやつが並べられ、アニメのキャラクターが描かれたコップ三つに、冷たいお茶がぎりぎりまで注がれている。毎日がピクニック気分だろう。キビが倒され、畑が開いてくると、風が吹き抜けて爽快だった。

  作業はきつい。 キビを倒し、葉を落とす。 縄で結わき、道まで運び、積み重ねる。しかし、私たちも気分良く働けた。 束ねたキビを肩にかつぎ、テントの前を通る。テープの声が聞こえてくる。私の声だ。過剰な表現で、とても他人には聞かせられない。つい足早になる。 救いは、娘の笑い声だ。厭きることもなく、同じところでケタケタ笑ってくれる。 静かなときは、お昼寝タイムと決まっている。
 畑がほとんど開いたころには、娘も仕事を手伝おうとしていた。本人としては、戦力になっているつもりだ。こぼれ落ちたサトウキビの小さな一本を、わざわざ肩にかついで運んで行く。 親を真似て、タオルを首に巻きつけてもいる。

  今はサトウキビとも離れて生活し、娘も大きくなった。あのテープは、机の奥にしまわれたままだ。 恥ずかしくて、 もう聴くこともないのだが、処分もできない。 これも成長の記念になるだろう。娘にとっても、私にとっても、だ。
  残しても邪魔になるものではない。 ふふふ。いつの日か、そのときが来れば、あのテープを娘の「嫁入り道具」に忍ばせてやろうだなんて、と〜んでもない無茶を考えはじめている。


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10.


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11.


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12.
   夢の嘘


 ・春浅し 拳の中は夢の嘘

 ・記憶すら やさしく飾られ 雨三月

 ・老犬と 見る眉月や 寒明ける

 ・おぼろ月 海いつになく満ちており

 ・人妻も やがてささやく夜半(よわ)の春

 ・春雷や 爪で誤魔化す疵の痕

 ・風眩し 魚影横切る人造湖

 ・さよならと 黄砂の港 君は発ち

 ・見栄さえも 残せず割れたシャボン玉

 ・穏やかに 酒に抱かれて 春深む

 ・あきらめを 諭していまの 夏来たる

 ・薫風や 笑顔似せたる少女たち

 ・打ち水や おとなへ向かう下駄の音

 ・夏空を 讃えて軋む観覧車

 ・汗を拭く 女の肩に見るほくろ

 ・痩せぎすの 女の日傘 遠ざかり

 ・夕凪の 東シナ海 刳舟(サバニ)行く

 ・夕映えに 我等の沈黙 染まりつつ

 ・星涼し 解かれた腕が北を指す

 ・嘲りの 声も消されて蝉時雨

 ・遠花火 夢の時空もジ・エンド


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13.
   雪しまく


 ・恐縮の 足跡残す 雪の朝 

 ・雪晴れや 学生と乗る 無人駅

 ・ひねくれて 午後には地吹雪の予感

 ・足跡を 健気に埋めて 雪しまく


 ・けっこうな 八坂の塔に 月冴ゆる

 ・坂の雪 やんちゃ娘を 僧が抜く

 ・これよりは 鞍馬につづく 雪の径

 ・積む雪に 躊躇してみる 鞍馬寺


 ・雪まじり 急ぐ小さな 赤い傘

 ・雪の寺 耳を温(あった)む 缶コーヒー

 ・空き缶を さてどうするか 雪こんこ

 ・掌(て)の雪が 解けきるまでの 摩訶般若


 ・始発待つ 父とわたしの 白い息

 ・百歳の 義母が指さす 冬銀河

 ・雪明かり 君が初めて 泣いている

 ・夜汽車待つ 駅舎の隅で 咳止まず


 ・朝霧や わたしひとりの 寝台車

 ・廃線の 駅舎で見やる 驟雨(しゅうう)かな

 ・汗を拭く 女の肩に 見るほくろ

 ・打ち水や おとなへ向かう 下駄の音


 ・いますこし 旅の火照(ほて)りの さめるまで

 ・酩酊の 空には北斗 あとは闇

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14.
   さみだるる


 ・日に焼けた 八つの肩が 笑う坂

 ・パラソルを 閉じて見返る 坂の古都

 ・風青し うなじの黒子(ほくろ) 見え隠れ

 ・迷い坂 盆地の縁(へり)に 西日さす


 ・ハングルの 君の名読めて 梅雨に入る

 ・飛び石を 素足で渉る 女学生

 ・炎天や 小路(こうじ)の奥は 水子地蔵

 ・熱帯夜 呪いの絵馬の 鳴りが止む


 ・石段の 数だけ禊(みそ)ぐ 業(ごう)の汗

 ・嵐電(らんでん)の 窓いっぱいに 夕立雲(ゆだちぐも)

 ・鐘楼で 落ち合えぬまま 驟雨(しゅうう)来る

 ・真っ直ぐに 生きる女と 呑む冷酒


 ・片かげり 煉瓦倉庫の あっけらかん

 ・湿原に ぼちぼち着いて 大夕焼(おおゆやけ)

 ・海霧(ガス)深し このバス停で 降ろされる

 ・少年の 夢は潰(つい)えて 雲の峰


 ・愚かにも 胸騒ぎする 南風(はえ)の夜

 ・ようようの 決意を挫(くじ)く 大雷雨

 ・あなたには わたしが見えていない夏

 ・太宰忌や 裏目ばかりが 出る手はず


 ・夏浅し 自転車を押す 沈み橋

 ・吉野川 越えて五月雨(さみだ)る 遍路みち

 ・白南風(しろはえ)や 女の嘘が 終わらない

 ・星涼し 旅の最後は 馬鹿笑い


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15.
   山眠る


 ・やわらかな 下駄の音して 今朝の冬

 ・番傘を 粋に回すや 初しぐれ

 ・神籤(みくじ)売る 巫女の襟元 かぜ冴ゆる

 ・稜線を 仰ぐあなたへ 寒三日月


 ・寒晴れや 漁村に小(ち)さき 天主堂

 ・日向ぼこ どなたが隠れ切支丹

 ・冬枯れの 棚田の畦で 祈る姉

 ・忍ばせたクルス 氷雨の村を出る


 ・賽銭を 切り詰めてなお 冬遍路

 ・水っ洟(みずっぱな) 遍路を拒む 土佐のみち

 ・初霜や 蝋燭のない 大師堂

 ・甘酒が 五臓六腑に いい感じ


 ・トンネルを 越えてもやはり 枯野原

 ・雪催(ゆきもよ)い 女の訛り 聞き取れず

 ・廃線の 赤い駅舎に 雪ちらちら

 ・行商の 背負子(しょいこ)下ろして 冬の色


 ・つぎつぎに 舞い落ちる雪 つぎつぎと

 ・子どもらは さらりと帰り 山眠る

 ・わけはなく 雪の溜まりを 蹴っ飛ばす

 ・凍空(いてぞら)や 約束までに あと五時間


 ・冬なかば しばし落ち着く 海と陸

 ・ここからは わたしの夢と 冬銀河

 ・かちかちの 意固地を解かし 暖炉燃ゆ

 ・命の火 ときおり燃えて 冬深む


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16.
   此処(ここ)


 ・もう少し 目を閉じている 古都の朝

 ・大陸の 風を宿して 禄剛崎(ろっこうざき)

 ・不意にくる 記憶の隅の 観覧車

 ・見つめ合う 母の祈りと 子の願い

 ・夜桜や 風酔ふ街の まよひ道

 ・なにもかも 許され春は 暮れてゆく

 ・月曜日 ただ雲だけを 追っている

 ・芭蕉布を 晒(さら)せば遠く 軍用機

 ・君の手が 銀河をたどり 弧を描く

 ・一度だけ 角力(すもう)勝たせて 父は逝き

 ・父の見た 南十字や 風の秋

 ・憎しみを 全ては消せず 二十日月(はつかづき)

 ・アダン葉の 浜で隣家の犬つるむ

 ・天と地と グーチョキパーで 此処に在り

 ・ラムネ玉 チリンと鳴らし 旅終える


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17.
    飄々と


 ・春さむし 旅立つ君へ 朝の月

 ・ぼたもちを 半分残す 宵の春

 ・悪友の 死を知らされて 花の雨


 ・南風や 守禮之門の 影またぐ

 ・日に焼けた 少女ら去って 石のみち

 ・泡盛を 呑ませる店の この泡盛


 ・朝霧や 墨絵となりし 修行僧

 ・托鉢の 雲水ちらと 薄もみじ

 ・ひるむほど 妬ましいほど 水澄めり


 ・飄々(ひょうひょう)と 北端目指す サイクリスト

 ・逆光を 遍路が続く 沈下橋(ちんかばし)

 ・寝そべれば 聖地巡礼 日本晴れ


 ・あっさりと 降りる君との 観覧車

 ・ゆうべから 思い出せない 女の名

 ・なんとなく 午前三時の 月の宴


 ・相傘や ささやくような 小夜時雨(さよしぐれ)

 ・飛び石で 渉る川面に 神楽の音(ね)

 ・寒月が おんなを照らす 水照らす


 ・天晴れな 嘘で固めて 年暮るる

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18.
    風の宿り


  大陸からの冷たい風が、
  禄剛崎(ろっこうざき)を宿りとし、
  能登半島を越えていく。

  岬に続く径は、
  わずかな緑と小さな村を縫い、
  鈍色(にびいろ)の空に混ざっていた。

  頬被りした女たちが輪を作り、
  口々に空模様を嘆いたあと、
  南の島へ行こうと盛り上がる。

  漁に出なくなった男たちは、
  それはもう所在なさげに、
  煙草をふかすのだった。

  頬を赤くした子供たちが、
  おかまいなしに走り回ったあと、
  風がまた強くなった。

  もう若くはない旅人が、
  色褪せたザックを背負い、
  目を落としたまま過ぎて行く。

  この男もやはりそうだ、
  昨日の旅人と同じように、
  身構えて怯えを隠している。

  何かを求めているだとか、
  何も求めていないとか、
  もう気取るのはやめにしよう。

  間垣(まがき)に囲まれた村を抜ければ、
  日本海はひたすら大きく、
  波の花が大袈裟に舞う。

  径の向こうから小さく、
  同じようなザックを背負って、
  痩せた女がやってきた。

  ありきたりな昔があって、
  貧しい別れを重ねてきても、
  粋がる素振りは捨てられない。

  擦れ違う女と言葉も交さず、
  振り返ることも面倒で、
  男はただ歩みを進めるのだった。

  海が唸るせいなのか、
  勇気という古臭い言葉を、
  思い出しそうになり苦笑した。

  どれほど歩けばいいのか、
  旅人は溜め息をつくことも忘れ、
  小刻みに震えはじめた。

  大陸の風が、
  海突く岬を宿りとし、
  能登半島を越えていく。

  旅人は、
  まだ休めない。


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19.
―藁のぬくもり―
   

 《平原暮色》

大地は確かに息づき
空翔ける風は麦の薫りを運ぶ
雨あがりの森の中 ケモノが二匹駆けぬける
から松の林の下には 若い夫婦と子どもたち
平原暮れなずみ 旅人ひとり酒

大地は確かに息づき
緑なす初夏の丘辺 羊飼いの声
ささやく夜が近づいて ケモノが二匹吠えている
紅に染まる西を見る 若い夫婦と子どもたち
平原暮れなずみ 旅人ひとり酒

大地は確かに息づき
霞たつ道は遙か異国へ続く
葦ざわめく川の岸 ケモノが二匹疵いやす
茅葺きの小さな家には 若い夫婦と子どもたち
平原暮れなずみ 旅人ひとり酒

 《アパートメント

消し忘れのヘッドライト 窓の下は都会の朝
女の匂い風のなかに とけこませてしまいたい
 よどんだ川のすみに 溜め息浮かべ
 すすけてしまった季節のなかで もうじきまた一つ年を取る

女が帰った部屋の隅に 飲み残しのコーヒーカップ
忘れていったキザじゃないか 誰かの詩集だなんて
 よどんだ川のすみに 溜め息浮かべ
 すすけてしまった季節のなかで もうじきまた一つ年を取る

むかしむかしに死んじまった 仲間たちはやさしいもんさ
古いレコード聴くだなんて 移り気な女のせいさ
 よどんだ川のすみに 溜め息浮かべ
 すすけてしまった季節のなかで もうじきまた一つ年を取る

 《芭蕉の里》

やんばる 潮風 せみしぐれ
岬につづく白いみち
フクギ並木の淡い影のなか
小さな村のどこかで
だれが織るのか 芭蕉布
けだるさ残し ときが過ぎていく
 みちには幼いいたみがある
 葉ずれの音 芭蕉の里

岬の小径も夕暮れて
ひとりで飾る花化粧
指切りしたは十五の春よ
ボーっと汽笛鳴らして
行く船 来る船 帰る船
散らせた花に そっと目をとじた
 誰にも言えない想いもある
 風やさしく 芭蕉の里

くちびるかみしめ 陽が落ちて
あの日と同じあかね雲
サバニにのせた 過ぎし日の夏よ
とおく見てる娘の
焼けた素肌まぶしく
若者がひとり ふる里へ向かう
 夏にはふたりの願いがある
 月あかりの芭蕉の里

 《わたしのふるさと》

ざざざん ざぶるん なんでしょう
大きな波が 押しよせて
砂山くずし わたしの足あと消した
ひゅるるん ひゅるん なんでしょう
峠をこえて 風が吹き
誰も知らない 白い花ゆらす
 だれかを呼ぶ声 聞こえてくるよ
 夕焼け空 あかね雲

からろん ころろん なんでしょう
そろいの帯に 下駄はいて
ならんで歩く 母さま姉さまわたし
ちりりん りりん なんでしょう
兄さまたちが 自転車で
わたしの好きな 白い花くれた
 祭りの太鼓が 聞こえてくるよ
 いちばん星 西の空


‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

20.
   風来


 ・鐘楼を 登りつめれば見はるかす
   ローテンブルクの 夕映えの屋根

 ・石畳 一歩一歩と上りつめ
   道しるべ追う いにしえの首里

 ・ひとつずつ 絡(から)めた指がほどかれて
   蛍火を追う おんなうつくし

 ・娘(きみ)の手がぴくっと開く それだけで
   すべて許せた 誕生の朝

 ・猿払(さるふつ)の 粉糠雨(こぬかあめ)降る月曜日
   海は色失(う)し 道はひとすじ

 ・青年の 見つめし山もつつまれて
   朔北(さくほく)の野に 降りやまぬ雨

 ・勇払(ゆうふつ)の 野に埋(うず)もれし呪詛の声
   はまなすの棘(とげ) 静かに握る

 ・野の仏 語れよ困民の自由自治
   風翔(か)けぬけて 秩父路は秋

 ・遙かなる 屍(しかばね)たちの峠より
   見よ 叛逆の八車線道路

 ・柔らかな沈黙に村 覆(おお)われて
   駆けぬけし我が 夏は終わりぬ

 ・見下ろせば 村の祭りは今たけなわ
   伝説の巨人 密(ひそ)やかに復活

 ・特別な日と いうわけでなし 今日も
   午後五時 船は釜山へ向かう

 ・頬(ほほ)流るる 異国の雨を慈しむ
   ひれ伏したきほど 君等の大地

 ・乱れ咲くコスモスの中 わが汽車は
   やさしさ残して 今折り返す

 ・さよならと夕暮れの港 君は発つ
   語ることなかれ 我等の悪戯(いたずら)

 ・握りしめた拳の空虚 預けたまま
   大観覧車に 大陸の風

 ・満天の沈黙 君よ見つめたまえ
   せめて今宵(こよい)は 追想の宴

 ・いつになく 華やぐ街の交差点
   酔えよ 冷たき銃の感触

 ・美しき真実語る それもよし
   振り返れば天に 戦闘機雲

 ・旅ゆえに ここぞとばかり星は降り
   乙女ほろ酔うて しばし囁(ささや)く

 ・なにもなく季節は移り いま旧友(きみ)と
   酒酌(く)みかわす 飲めやもう一碗(ひとわん)


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21.
   七堂伽藍


 ・雪しまく 七堂伽藍 凛として
   若き僧侶の 読経朗朗

 ・木の根みち 息はずませて 立ち止まる
   老いた夫婦よ 雪の鞍馬よ

 ・しんしんと 坂を上がれば 真如堂
   外国人が 道を尋ねる

 ・鴨川の 堤を走る 女生徒に
   するり抜かれる 風邪気味の午後

 ・人影も 絶えた深夜の 五条坂
   どこかで下駄の 音が重なる



 ・夜桜の 露店の尽きる 板塀に
   二時間前の ジャズのポスター

 ・見え透いた 下手な化粧の 猿芝居
   あいつが神で こいつは何だ

 ・生真面目な 相づちを打つ 村人に
   粋な詐欺師の 面目躍如



 ・朔北の 原生花園 花はなく
   ここらが旅の 折り返し点

 ・ぽちゃぽちゃと 湖畔に湧いた 野天湯に
   イタリア人の 家族とゆるむ

 ・灯を消せば 闇となりけり 野天の湯
   おそらくあれが 獅子座のレグルス

 ・この街で 気を緩ませて 南下する
   銅鑼の連打で 深夜の出航



 ・石段の 先は小さな マリア堂
   異国の風は 心地よきかな

 ・教会の 鐘が聞こえる 大運河
   痩せた女が 手を振ってくる

 ・これほどに 落ち着き払う 漁師町
   チーズの香り 石を踏む音

 ・寡黙なる 父の形見の ハンチング
   おどけてかぶる 枯葉のセーヌ

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

22.
   極上の酒


 ・石塀の 小路(こうじ)の奥の ほらあそこ
   オムライス出す 洋食食堂

 ・擦れ違う どこかの人と お辞儀する
   古都の小路(こうじ)は 斯(か)くも優しき

 ・日の暮れて 糺(ただす)の森に 鳥が啼く
   わたしの宿は まだ決まらない

 ・雨に濡れ おんなが祈る 縁切り寺
   不幸願って 鬼が棲む夜



 ・下校する 少年たちを 呼び止めて
   旧街道の みちを尋ねる

 ・この地球(ほし)を わたし独りが 歩いてる
   石畳のみち ほんのり灯る

 ・寂として 犬さえ吠えぬ 宿場町
   闇の向こうに 自販機ひかる

 ・月は煌々 卯建(うだつ)の旧家が 続く道
   ラッパ飲みする [極上]の酒よ



 ・ようやくに ここまでは来た 西の道
   岬の寺へ 同行二人(どうぎょうににん)

 ・半島の 先まで行けば 見えてくる
   なにか知らぬが 見えてくるはず

 ・お遍路の 石に彫られた 道しるべ
   そろそろ来そうな あの二人連れ

 ・年老いた 遍路が歩む 沈下橋(ちんかばし)
   チリンと鳴らし ママチャリが抜く



 ・スコールが 収まり鎌を 研ぐ午後に
   従兄弟死亡の 知らせが入る

 ・編隊で 低空を飛ぶ 軍用機
   芭蕉畑の <芯止め>終える

 ・べた凪の 海上遙か 伊平屋(いへや)の灯
   こんなときには 流れ星かな

 ・なんでかねー あんたがいないと 浜へ出て
   島酒空けて 寝ちゃっているさぁ

‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

23.
   ねえ女将さん


 ・雪ちらほら なんちゃら小路(こうじ)の 赤提灯
    だれかに惚れたい ねえ女将さん

 ・器量よし 気立てもよくて 才長(た)けて
    演歌のような 目の前のひと

 ・行きづりの 旅の酒場で くだ巻いて
    誰かに殴られ 何かを殴り

 ・色褪せた マリア観音 凛と立つ
    背筋伸ばした 老婦が祈る

 ・山腹の 小径を折れた 大岩に
    二人で唱う 誓いのオラショ

 ・真っ黒な 壁には黒い 手形つけ
    真っ赤な池には 薄紅(うすべに)の唾

 ・下衆(げす)どもの 勘繰りそこに とどまらず
    善人たちの 故郷を払う

 ・たまゆらの 恍惚の果て 国を去る
    目覚めて此処は 韃靼海峡

 ・遠くから なにやら君は 問いかける
    わたしは君の 存在を消す

 ・2番線 貨物列車の 通過待ち
    決心鈍らす レールの軋み

 ・この駅を 過ぎれば大きく カーブする
    遠心力よ わたしを落とせ

 ・真面目には やはりなれずに どんぶらこ
    疵を誤魔化し はあ五十年

 ・仄暗(ほのぐら)い 秘密に満ちた 大広間
    今宵わたしと ワルツはいかが

 ・声明(しょうみょう)の 響く夜明けの 霊山に
    数珠を爪繰(つまぐ)る 青の麗人

 ・朝霧に 包まれ謎の 貴婦人は
    杉の木立へ 御身(おんみ)を急ぐ

 ・ことのほか 急坂続く 奥の院
    引き返しても 嘘はとおせる

 ・夏草が 蔽(おお)う近江の 一揆の碑
    オマエが問うた 我らの十八

 ・要領の 悪いオマエと つるんでた
    神になれない 不思議を笑った

 ・約束を ぽおんと破り 死ぬなんて
    オマエのいない 六月は罪

 ・朝未(あさまだ)き 冷えた砂丘の 峰に立つ
    天上天下(てんじょうてんげ) わたしは宇宙


‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

24.
   ひとりぼっちのリュウ

  はるか南の島に、一ぴきのリュウが住んでいました。 その島で、たった一ぴきだけのリュウです。 呼びかけてくるものもいないので、名前すらついていません。
  いったい、いつからひとりになってしまったのでしょう。それは、だれも知りません。 そのリュウですら、思い出すことができないのです。
  いつもリュウはひとりぼっち。 大きすぎて、強すぎて、だあれも近寄って来ないのです。日の光、月の光にキラキラ輝くこんじきのリュウ。あまりにも気高いその姿に、だれもがおそれおののいたのでした。
 「食べものは、山にも海にもごっそりある。 平和だ。 敵さえ見つからない。自由もいっぱいだ。 ああ、しかし‥‥いっしょに喜べる相手がいない。 幸せとは、いえないぞ」
  リュウは、空を見あげました。
 「友だちが近くにいれば、どれほど楽しいことだろう。ああ、仲間のリュウ‥‥どこにいるのだろう」
  リュウは、さみしいのです。
  あのリュウでも、さみしいときは泣くのです。島じゅうにひびきわたる大きな大きな泣き声。どくどく流すなみだ。 だれにだって、さみしくてたまらない夜もあるのです。
 「きっとどこかに、仲間たちがいるにちがいない。 喜びを分かち合う兄弟たちが、必ずどこかにいるはずだ」

  ある日、リュウは決心しました。海の向こうにわたり、仲間を見つけようと思ったのです。
  島をはなれるなど、初めてのことです。勇気のいることでした。 でも、友だちをもとめる強い気持ちが、リュウに勇気をあたえたのです。
  となりの島へは、ゆっくり泳ぎ、ゆっくり飛び、思ったより簡単に着けました。 が、どこをさがしても、仲間は見つかりません。
  つぎの島にも泳いでは飛び、飛んでは泳ぎ、少しつかれましたが、なんなく着くことができました。 しかし、やっぱり友だちはいません。そして、ほかの者がリュウをおそれ、遠くへ逃げていくのも同じです。
  さらにつぎの島をめざします。 ひとりぼっちの旅が、長く長く続きました。
  弱気になってしまう日もあります。
 「こんなことを何度くりかえせばいいのだろう。引き返せば、おだやかな暮らしが続くというのに‥」
  でも、リュウは、さすがにリュウです。
 「いやいや、決心したんだ。 最後まであきらめないぞ。 そうさ、自分は、あの強いリュウではないか」
  こんじきに輝く気高いリュウ。リュウは自分をはげましながら、またつぎの島をめざすのでした。

  ところが、泳いでも泳いでも、いくら空高く飛んでみても、つぎの島がまったく見えてこないのです。
  それどころか、 そのうち大きなあらしがやって来て、 強い雨、強い風、リュウはどんどん流されてしまうのです。いくら飛ぼうと思っても、たたきつけられてしまいます。 いくら泳ごうとしても、波に呑まれてしまうのでした。
  リュウは、がんばりました。負けてなるものか。負けるはずがないぞ。歯をくいしばって、たたかいました。しかし、あの強いリュウでも、あらしには勝てなかったのです。
 リュウは、気を失いかけていました。体力を使いきっていたのです。あとは、流されるまま身をまかすだけ。
  気がつくと、どこかの浜辺に打ちあげられていました。あらしは収まっていましたが、リュウの体は全身きずだらけ。少し動かすだけでも、ギィギィきしみます。
  ふと見ると、がけ下に横穴があいています。 細長く奥まで続いており、休むのにおあつらえむきです。リュウは、つかれていました。 ようやくのことで、その洞くつに体をもぐらせ、ただただ眠ることにしました。
  いく日眠ったことでしょう。 昼も夜も眠りつづけました。いく月もいく年も眠ったままなのです。 いく百年、 いく千年眠ったかもしれません。
  夢を見ていたようです。仲間のリュウが集まっています。いっしょに遊んでいると、ほかの動物たちもやって来ました。 まわりを囲んで、みんなとても楽しそう…。

  ようやく、リュウは目をさましました。 体のいたみは、 すっかりなくなっています。
 「やれやれ、元気がもどったぞ。 さあ、また出かけるとするか」
  ところが、なんとしたこと。長い年月に洞くつが狭くなってしまったか、それともまさか、リュウの体が大きくなってしまったか、そこから出られなくなっているのです。 ほらあなに閉じこめられて、身動きできません。
 「そ、そんな‥。 入れたのだ。 出られないわけがない」
  いろいろ、あがいてみました。おかしな格好にもなってみました。 しかし、どうやってもだめ。もう、前にも後ろにも進めません。
  リュウのちょうど真上に、ぽっかりと小さな穴があいています。そのゆがんだ四角だけ、なつかしい空が見えているのです。 しかし、飛び出そうにも、最初から頭がつかえています。しっかり、つっかえているのです。
  もう、あきらめるしか、ないのでしょうか。
 「なんということ。 このまま、ここで、年老いていくのか。 サンショウウオじゃあるまいし、こんな失敗をするとはな。 自分は、気高いリュウではないか」
  どうやっても、リュウは抜け出ることができません。

  北風の強い日、 荒波は洞くつの中まで押し寄せ、リュウのしっぽ、腹、胸、頭まで入ってきます。 勢いよく水が流れこんで、さすがのリュウも息が苦しくなります。 海水をたっぷり飲まされてしまいます。
 「かんべんしてくれよな。なんだって、こんな目に遭うんだろう。何か、悪いことでもしたっていうのかい。神様よ、このままだったら、あんまりじゃないか」
  神様すら、リュウには近づかなかったようです。さみしすぎることですが。
 「もう、 どうにもならん。 最初っから、こういう運命だったのか。そんなのって、ほんと、ないよなあ。そもそもあのとき‥うおーっとと、また水が入ってきた。たまらんぜ。 げぼげぼ。ぶひーっい」
  口いっぱいの水を吐き出して、 続けて二度、続けて三度、思いっきり真上に吐き出します。 真上には、ゆがんだ四角い希望の穴。ぶおーっと大きな音とともに、そこから水が噴き上がります。 クジラよりも、はるかに見事なリュウの潮吹きでございます。
  おみごと、おみごと。動物たちがやって来て、やんや、やんやの大喝采。うわさを聞いて、世界中から駆けつけてくるのです。リュウの潮吹き見れたこと、大笑いして喜びます。お弁当ひろげて、みんなお祭りさわぎです。 いつまでたっても、笑い声が続いています。
 「もしかして、仲間のリュウがうわさを聞きつけ、 助けにくるんじゃないだろうか。 こんな見事な潮吹きは、こう言っちゃなんだが、 気高いリュウにだけ出来る芸当だからな。 おーい、どこかの仲間たち。 この潮吹きが見えないのかい。見つけたら、そうさ、助けてほしいんだ。 よおし、もっと高く噴いてみせよう。 ここだ、ここだ。 頼むよ〜」

 それは無理だと思います。だって、そのリュウは、実は世界でも最後の一ぴきとなってしまったリュウなのでした。 一ぴきだけ生き残ってしまったリュウ。 かわいそうなこのリュウは、そのことを知りません。
 そう、 仲間のリュウなんて、 どこを探してもいなかったのです。 それでもこのリュウは、助けに来てくれると信じて、 いつまでも待っているのです。 遠くの仲間にとどくよう、高く高く水を噴き上げているのです。 力いっぱい、噴き続けているのです。

  あれからもう、何千年、何万年たったことでしょう。 山も海も姿を変えて、見知らぬ生き物ばかりになっています。ただ、あの洞くつだけが、今もむかしのまま変わっていません。そして―

  今も、そのリュウは生きています。 本当に生き続けているのです。 まだまだ元気で、仲間の助けを今か今かと待っているのです。あのときのまま。
  北風の強い日に、近くまで来てごらんなさい。 遠くからでも分かりますよ。 ぶおーっと吼える声が聞こえてきます。空高く水が噴き上がります。 噴き続けているのですよ、 あのひとりぼっちのリュウが。
  あなたも、 いつかそれを見ることがあるはずです。 そのときは、どうにかして助け出すことを考えてください。かわいそうなリュウを救ってください。
  リュウは、いつまでもいつまでも哀しいのです。


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25.



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26.



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27.
   ゴジラだったころ

 隠していたが、白状してしまおう。ぼくは、ゴジラだった。
 畳の街に整然と並べられた汽車やパトカー、積み木のビルディング。それらすべてを蹴散らしていた。妹の人形や、ときに妹本体をも踏みつぶしていた。無敵。そうさ、ぼくは天下無敵だった。
 街はちっぽけだった。ぼくは、とてつもなく大きかった。
 同じころ、スーパーマンを名乗るニンゲンモドキがいた。カッコつけちゃって、いけ好かない。異星人であるというのに、特定の地球人だけに肩入れしている。そんなインチキ野郎も含め、ぼくは容赦なく無差別に攻撃していく。
 成人しても、まだゴジラっていた。カマキラスやクモンガのような見かけだおしを粉砕していた。格好だけは赤くて勇ましい、エビラなんてニセモノ野郎も打ち砕いた。キングコングのように美女にメロメロになっちまうのは軽薄と思えた。
 空だって飛べた。ラドンだった。羽ばたけばビルは崩れ、戦車は吹っ飛んだ。遠い国、遙かな空間へも自由に行けた。
 時が過ぎた。気がつくと、ゴジラは向こうに大きく立っていた。ぼくの足もとには、着古されてへにゃへにゃになったゴジラの着ぐるみが落ちている。ぼくは50分の1に縮小され、どうやら、ニンゲン仮面にされてしまったようだ。マットーに見えなくもない。ゴジラ、ラドンにも有効期限があり、やがて自分にも飛べなくなる日が来るだなんて、ああ、あの悪いうわさは本当だったんだ。
 いまでは情けなや、ハイテクメカゴジラの襲来に逃げまどうエキストラの一員だ。合成画面撮影のため、メカゴジラの姿などどこにも見えないというのに、その幻影に脅えているのだ。どうせ脅えるのなら、機械であるメカゴジラよりも、怪獣を恐れていたかった。生身で、本当に凄いヤツら。
 遠い記憶なのか、いまもテーマ曲が聞こえてくると、体がムズムズしてくる。大声で吼えてみたくなる。なんもかも、ぶっ壊したくなってくる


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28.
   コミューン伝説

 1884年に起こった秩父地方の住民蜂起は、一般に「秩父困民党事件」と呼ばれている。日本の近現代史において、住民自らが自治権力を志向した、まれな闘いだった。
 農民らは、極度の貧困と高利の借金に苦しんでいた。困民党として組織された近代の百姓一揆は、秩父一帯を制圧した。明治政府の権力に、空白の風穴を開けたのだ。「自由自治元年」の旗を掲げ、「恐れながら天朝様に敵対する」決意で、時の政府から離れた別空間を求めた。自分たち自身の力で理想の聖域を構築し、「自由自治」を目指した。そして、敗北したあとに「伝説」だけが残った。
 反対運動や請願行為は、いくら規模が大きく、形態がどんなに激しくても、要求が通った段階、または要求が潰された段階で終わりになる。相手が出てこなければ、次の手が打てない。情況をリードしているのは自分たちではない。権力を伴う住民自由自治とは一線を隔てる。
 世界史の中で、それは「パリ・コミューン」に代表される。1871年、立ち上がったパリ市民により、王も政府も介入できない自由都市空間が実現した。住民による住民のための自治共同体、「コミューン」。市民の自由が保障され、人権が尊重された。その方針を自らの意思で決定し、実行し、守っていくという、真の自由自治が完成した。外部からの激しい暴力に抗し続け、歴史に輝きを残した。
 さて、あまり知られていないが、自由自治を目指した闘争の歴史が沖縄にもある。1931年から32年、大宜味村喜如嘉を中心とした「村政革新運動」と呼ばれる動きだ。
 初期の段階では、村当局者の専横に対し、不正を糾弾し、減税を求め、辞職勧告を突きつける反対運動として存在した。しかし、その後の闘争の発展と意識の高まりが、住民組織を質の高い運動体に変えていった。自由意思と自主性を重んじた組織のもとで、流通と消費を共同体の事業とし、さらに共同生産をも手がけていた。男たちだけでなく、女も子供もシステムの中で役割を担い、主人公となって躍動していた。軍国主義日本に組み込まれない自治共同体、独立した住民自主管理組織が完成した――かに見えた。
 時代は昭和初期、早すぎたとは言わないまでも、突出しすぎていた。日本からも世界からも、そして沖縄の中からも目立った支援はなく、孤立無援の「コミューン」は、その存在を許さない暴力によって潰されていく。そして、記録の中でも、単なる住民反対運動として片づけられてきた。
 沖縄を含む日本の近現代史の中で、自治共同体(コミューン)の完成を目指し、理想社会の実現をも念頭に置いていたと考えられる住民闘争は、秩父と喜如嘉の2例しか知らない。歴史から抹殺されないよう、秘めやかにでも伝えていく必要があるだろう。それが、たとえ「コミューン伝説」というかたちであったとしても、名前が勝手に歩き出すことだって、決してないとは言えないだろうから。


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29.
   アイヌ語入門(知里真志保著)

 ポプラ並木で有名な北海道大学。そのわきの古本屋。若い日、旅の気まぐれで立ち寄って、最初は土産気分で買い求めた「アイヌ語入門」。
 知里真志保は、アイヌ民族のアイヌ語学者として知られる。1956年に発行されたこの本は、語学書の体裁をとりながらも、実はアイヌ語への熱い思いから発した宣戦布告の書であった。戦う相手は「アイヌ研究家」。アイヌのこころや生活を無視してきた日本人の学者連中だ。
 動植物。人。大自然。道具や衣服。言葉。すべてのものに“こころ”があり、神々の魂が宿る。神々(自然)からの豊かな恵みを感謝して、みんなが共に生きている。
 優しさ。慈しみ。愛。アイヌの豊かな精神社会を理解しようとせず、目の前に存在するモノやコトバだけに固執してきた研究屋たち。彼らは、自分の手柄となる研究の対象物としてだけアイヌに接してきた。そこには今を生きる北の隣人アイヌの姿はなく、過去の民族の標本姿だけがある。そんな時代に、アイヌの側から彼らの喉元に突きつけた刃がこの書だ。
 アイヌに生まれ。アイヌを愛し、アイヌであることを誇りとして生きた知里真志保。血管が浮き上がってきそうな激しい文章で迫ってくる。知里の攻撃目標に、民間の研究者などは含まれていない。相手はこの道において大家として「名声」を得ている大先生ばかりなのである。
 その容赦ない「個人攻撃」に、嫌悪感をいだく読者もいるだろう。昨今の風潮では、他人の説にチャランケ(談判)つけるときは遠慮しがちなポーズが必要で、ズバリ言わないことが、たしなみとされている。遠回しな表現に慣れてしまっている不健康な諸氏にとっては、いささか毒がきつすぎるかも知れない。

 御都合主義的解釈の彼らの誤りを、単なる誤りとして見過ごすことはできない。アイヌ(アイヌ語で人間!)の生き方を理解しようとしていたなら、こころを感じとろうとしていたなら、間違えようのない誤解なのだ。知里が怒るのも当然だ。民族の“こころ”を別にしたところで成り立つアイヌ語など考えられないのだから。
 無断で墓をあばき、研究室のガラスケースや段ボールに大量の骨をコレクションする。家宝になっている伝来の品々を名目つけて持ち出し、自分の収蔵庫にしまいこむ。こんな日本人の「学者」がゴロゴロしていて、アイヌのこころを冒涜していた。それと同類の学者が、今度は言葉や地名の私物化を図り、言葉に含まれている「魂」を捨ててきた。

 『アイヌ研究を正しい軌道にのせるために!』との知里の願いは、どう実を結んでいるだろうか? 残念ながら、今日のアイヌを取り巻く日本人の中から、知里が批判していた類いの学者が一掃されたとは言えない。また、紳士ヅラしてやってきては、同化を押しすすめていくヤカラも減ってはいない。民族の“こころ”までも抹殺しようというのである。
 しかし、どっこい。民族の中からは、アイヌ語を意識的に学びとろうとする多くの若者が育ってきた。伝統的な儀式や習慣を復活させようとする試みも各地で行われている。そしてなにより、アイヌとしての“こころ”を持った多くのアイヌが現れ、民族をしっかり支えている。
 アイヌ民族の中から確実に、知里真志保の遺志を継ぐ人々が育っているのだ。知里の熱い思いにこたえて、アイヌのこころを誇らしげに掲げるようになっているのだ。
 民族の思いがどのように結晶していくのか、兄弟である沖縄の側からも、熱いエールを送り続けていきたいと思っている。


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30.
   奥ゆかしくて

 最近、「プライド」という言葉をよく耳にします。以前は、よほどの事態のときに語られる特別な言葉だったような気がしますが、昨今では安っぽく、頻繁に使われています。多くが、「自分のプライドが許さない」「自分はプライドが高い」といった、相手を拒絶する強い姿勢を示すときに用いられます。
 他人に負けないよう、精いっぱい「威厳」を誇示しているのでしょうか。自分の非を認めたくないとき、非を認めていると相手に悟られたくないときに、意味なく使われるようです。とりあえず、誰からも反論の出ようがない便利な言葉が世間にはいくつかありますが、これもそのひとつでしょう。その言葉が出れば、話は打ち切り。互いになんの収穫もありません。
 俗っぽい「プライド」は、見栄や虚勢によく似ています。都合の悪いことや面倒な家事などを「プライドが許さない」と他人に押しつけることができます。「自分はプライドが高い」と書かれた看板を掲げていれば、わけもなく威張ってもいられます。「プライド」は背伸びするための小道具となり、どんどん軽薄なものに落とされていきます。
 プライドは、強調して他人に示す性質のものではないでしょう。自分が決めたこと、信じたことで、自分にどう誠実になれるかということではないでしょうか。プライドが許さないという怒りは、自分に対して納得できないときに向けるべきでしょう。そのプライドのバーの高さを維持することも、高くすることも、そして低く下げることさえも本人次第です。誰が見ているわけでもありません。まして、誰に知らせる必要もありません。
 本来のプライドの高さということで私がすぐ思い浮かぶのは、朝鮮独立運動で囚われ、すさまじい暴力の中で屈服を強いられても耐え抜いた人々、とりわけ女性の姿です。孤独の監獄の中で人間性を守りぬき、自分の尊厳と向き合うわけです。このような究極の場面には、私たち自身はめったに遭遇しません。
 しかし、身近なところにも小さな場面は用意されています。職場や地域はもちろん、家庭生活の中にさえ、日常的に存在しています。それを知らんぷりして、簡単にプライドを捨てていることが多くあります。「妥協」と言い換えることもできますが、生活の中でひとつひとつのことにどれだけ気づき、こだわっていけるかが問われているような気がします。
 プライドが高いことは居丈高になることではなく、かえって謙虚になることだと思います。誰も見ていない、誰も知らない場面にこそ、守るべきプライドが活躍するのではないでしょうか。「自分のプライドが許さない」ことで、行動すること、拒否することへの後押しができるのだと思います。
 プライドという言葉で、他人に威圧感を与えることなどありません。日本語に訳せば「自尊心」。自分自身への誠意と理解します。それは内に秘めておく、本当は奥ゆかしくて、慎み深い性質のものだと思います。


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31.
   新郎と青年

  照明がそっと落とされ、全員が囲む中で新郎新婦のダンスが始まった。スポットライトに照らされて、二曲目はさらにスローなブルース。
  新郎は新婦を席に返し、輪の外にポツンとひとりいた青年の手を取る。そして、怪訝そうな周囲の視線をよそに、男同士で踊り始めた。
  青年の姉は、新郎のかつての恋人。 姉と弟の二人暮らしのアパートに彼はよく通っていた。三人でダンスに行ったこともある。幸せそうだった。
  北海道で、苦労の連続だった姉と弟。貧困のため幼い労働力をも必要とされ、奉公仕事や農作業で小学校低学年までしか学校にも行けなかった。根強い差別にもあった。さらに両親の死去と続く。それらを乗り越えて、二人で東京に出てきた。夜の仕事もした。がんばって生活も軌道に乗り、そしてようやく近づいてきた幸福だった。
  だが、弟の知らないところで二人は破局。結婚は恋愛の延長というわけに簡単にはいかなかった。愛情以外の制約があることを改めて思い知らされた。彼はいわゆるエリート。超一流とされる大学を出たばかりの商社マンであり、そして彼女はアイヌ民族だった。差別問題に取り組む中で出会っていた。
  傷心の姉は、北海道へ帰って行った。
  しばらくして、彼は職場の女性と結婚することが決まる。東京にひとり残る弟に案内状が送られてきた。もう会うこともあるまいと思っていただけに、意外な招きだった。
  「祝福はできないよ。そうでしょ。あの隣にいる女の人が姉だったならって、そればかり。今日は皮肉で来てやったんだよ」 新郎新婦の入場の際に、そうつぶやいていた青年…。
  踊りながら、新郎も青年も泣いていた。抱き合って肩を震わせていた。
  「おめでとう」
  離れぎわ、小さい声で青年はようやくそれだけを言った。
  新郎は言葉が見つからず、ただ何度も何度もうなずくしかできなかった。

  そんなことがあったということも恐らく知らないまま、その姉は数年後に亡くなった。薬物の影響もあって、衰弱死だった。最期は老人のようだったと聞かされている。  


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32.
   ストーブ列車

 真冬の北海道東部。
 ときに零下三十度にもなる雪と氷の白い世界だ。
 吐いた息さえ凍らせていく。
 気持ちまでもが凍ってしまえば、ひとりの旅は、ジ・エンドになる。
 そんな極寒の地の、ま、前世紀のありふれた話だ。
 そう、これは相変わらずの昔ばなしなのである。

 釧路と網走を結ぶ釧網線に、蒸気機関車が最後の雄姿を見せて走っていた。
 ヒーターとは別に、その客車内には前後に二カ所、石炭ストーブが据えられている。
 国鉄で唯一残ったストーブ列車だ。
 ディーゼルの急行を避け、鈍行のその汽車、その座席が目当てで乗りこんだ。

 当時、冬のひとり旅は珍しい存在だったようで、火の周りに陣取っていたじいちゃん、ばあちゃんたちが、早速話しかけてくる。
 ストーブを中にして、家族団欒の図だ。
 そういう絵が、そのころは好きだった。

 本来は車掌の業務なのだろうが、もう自分たちで勝手に石炭をくべている。
 鱈(たら)や氷下魚(こまい)の干物がストーブの上であぶられ、やおら、じいちゃんの防寒服の下から、手品のように酒が出される。
 真っ昼間だ。
 だからといって断る理由は何もない。
 勧められて、当然いただく。
 ラベルから察して高級な酒ではなさそうだが、この上なく旨い。
 小さなコップが、みんなの中を移動する。
 ばあちゃんたちの飲みっぷりも見事なものだ。
 窓の外は流氷のオホーツク海とくる。

 酒と石炭ですっかり火照り、バカ話、ホラ話に花が咲く。
 ピッチが上がれば、やがて酒は空っけつの道理だ。
 終点までは時間もあることだし、もの足りない表情の御一同。
 そこで小生、とっておきのスペシャル水筒をザックより取り出す。
 注いだ液体は、キザにも恐縮にも、ウォッカだった。
 酒と知って、一同歓声を揚げる。
 ばあちゃんが、小生をたたいてキャッキャする。
 寒さ対策を口実に、強い酒を水筒に詰め替えて持ち歩いていた。
 ほんのり緑は、ライムを加えているからだ。
 旅に似合っているとは思えない。
 カッコつけていた。

 思わぬ酒宴の延長戦に、ますます盛り上がる。
 離れた席にいた二人連れまでが雰囲気につられて加わり、
 かえって格好の肴にされている。

 ほかに乗客もおらず、さあ民謡なども始まった。
 苦労を物語る手の皺が動いて、一斉に拍子を取り出した。
 若いころ、歯を食いしばって、みんな輝いていたんだろうな。
 かなりの美人だったはず、このばあちゃん。

 以来、寒い旅に酒は欠かせない。
 暑いときも、中途半端な季節も、それなりの口実は見つかるもので、旅に酒は欠かせない。

 たとえ我が身は寓居に在ろうとも、酒飲めば気分は旅ごころ。
 「栖(すみか)を旅」とする暮らしにあっても、ときに、「旅を栖」としてみたい。
 勘違いに憧れる。

 気分だけでも、きりりと冬の旅していたいね。


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33.
   スロベニアのオバちゃん

 旧ユーゴスラビアから内線を経て独立したスロベニア。お気楽な旅人には、平穏で美しい小国に見える。
 湖畔を散歩していると、ベンチに東洋系の小柄な二人組がいる。目線が合った。「ニイちゃん、ニッポン? ちょっと、シャッター押したって」ときた。
 年輩者でこの喋りかた。大阪のオバちゃんだ。この国で初めて見かけた日本人だった。意外とツアーでもあって、はぐれたのかと思ったら、二人だけで回っているとのこと。私と同じように、よく分からないからスロベニアを選んだとは、ひねくれ者め。
 私の泊まっている安い民宿を紹介しようとしたら、彼女たちはユースホステルに行くという。確かに一番安いが、ヨーロッパの若者たちと相部屋だ。相当な年齢差のある連中と同じ部屋でも平気という。
 近くで一緒に軽い食事をとったが、注文は全部大阪弁だった。ジェスチャーと人差し指の活用で、なんとかなっているらしい。たいしたもんだ。臆病な自分が恥ずかしい。
 姿を隠すほど大きなザックを背負い、二人はひょこひょこ出ていった。会話はやかましかったが、うわさに聞くオバタリアンと違って爽やかだった。たいして年の差がない私を「ニイちゃん」と呼ぶのも悪くない。
 沖縄は、オバァの元気さでは定評がある。さて、おばちゃん世代では、どうだろう? 現役でコテコテに輝いている「スロベニアのオバちゃん」は魅力的だった。こちらも年を取って、女性の好みが変わってきたのかな。


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34.
   民族の祭典
                          
 オリンピックは「民族の祭典」と呼ばれるが、現実は国家の「威信」を示す場で、祭典とはほど遠い。民族の代表も選ばれない。
 タイ北部、国境に近い村で、民族の祭典そのものに出合った。祝典の最後のイベントだった。村の広場に作られた臨時の舞台で、近隣の山岳少数民族が一堂に会し、民族衣装の正装で踊りを競いあう。ライトに照らし出された刺繍の模様が美しい。
 この村の周辺には、山の斜面にへばりつくように建てられた、いくつもの集落がある。ビルマ、ラオス、雲南などから移り住んだ各民族の「村」だ。ひとつ起伏を越えると、もう全く違う民族が住み、普段は交流が少ない。それぞれ衣装だけでなく、文化も習慣も異なる。顔立ちだって、明らかに違っている。
 会場では、観客の視線も温かい。村人みんなが、自らの民族を誇りながら、ほかの民族をも尊ぶ。同様に、私もアジア人でいることの喜びを強く感じる。そこにいる自分に違和感がなく、時を共有できて幸せだ。
 私が外国人であるとは、相手からもあまり意識されない。ヨーロッパを旅するとき、互いに感じる異邦人意識が、ここではほとんど起こらない。外見だけが理由ではなさそうだ。自分が培ってきた文化とは異なっているはずなのに、親しみを覚えてしかたない。
 「世界」となると自信はないが、少なくとも「アジアはひとつ」との思いこみが激しくなる。だから、旅はやめられない。


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35.
   イムジン河 水清く
              
  二十世紀の名曲といってもいい「イムジン河」。1968年、「ザ・フォーク・クルセダーズ」が歌ったことで、この歌は広く知られるようになった。「♪イムジン河 水清く とうとうと流る〜♪」 フォーク世代とやらに属する私も、当時よく演奏し、歌っていた。
  原曲は北朝鮮の現代歌曲だ。「帰ってきたヨッパライ」に次ぐ「フォークル」の第二弾として、ラジオからよく流れていた。発売前から大ヒット間違いなしと思われていたにもかかわらず、なにやら複雑で過剰な政治的配慮とかがあって、レコード化が突然中止になった。以後、幻の名曲となって放送もされず、オヤジ世代が密かに、そして感傷的に歌い継いできた。
  朝鮮戦争以後、河を境に民族が南北に分断され、肉親や友人であっても再会できない哀しみが詞にこめられている。自由に飛び交う水鳥の姿に願いをこめている。

  世紀を越えて現在、この歌がよく聴かれるようになった。 キム・ヨンジャはNHK紅白歌合戦において新たな日本語歌詞で熱唱し、フォークル版もCDで復活した。映画「パッチギ!」では、歌そのものがテーマのように、画面から何度も流れていた。朝鮮総連と韓国民団が笑顔で握手をする時代なのだ。
  数年前、 朝鮮語で歌う「イムジン河」の一部がテレビのドキュメンタリー番組から流れた。それまで私は、原曲を聴いたことがなかった。十代の在日僑胞が通う朝鮮中高級学校。 その女生徒たちが母国語で歌う「リムジンガン」。その透き通った歌声に魅了された。今まで知っていたフォーク調のアレンジと異なっており、 ゆったりと、おおらかな歌だった。日本語の詞では「想いは遙か」とあるが、原曲でもそのように歌われているのだろうか。歌の持つ凄味というものに、久々に出合った気がした。
  矛盾や格差をわざと無視して、統一だけを追求するのは危険なことかもしれない。仮に実現したとして、 それが理想郷というわけにもいかず、 その先の混乱は見当がつかない。だが、生きている人間の心情は、そんな次元とは別に、それぞれの想いが強くある。 系譜を大切にする民族なら、統一への願いや親愛の情は、なおさらだろう。

  ソウルの北西、オドゥ山統一展望台から眺める「臨津江」がイムジン河のことだとは、 現地で「リムジンガン」とハングルを読みとるまで気づかなかった。多くの制約と緊張を強いられる外国人専用の「板門店」とは違って、そこはレジャー感覚で訪れる韓国人でにぎわっていた。
  朝鮮の南と北を隔て、人の心まで隔てることになってしまった哀しい河。眼下を流れゆく河のすぐ向こうに、 届かぬ遠さでもうひとつの故郷が存在し、そこで兄弟たちが生活を営んでいる。
  人影は確認できないが、来訪者たちはレンタルの双眼鏡を懸命に覗き、北の地を指さして何やら語り合っていた。見ている限りでは深刻な様子ではない。みんなやけに陽気で、あっけらかんとしているのが私には意外だった。勝手に思い描いていた境界線の緊張と郷愁イメージが崩され、お気楽なヨソモノとしては、 わがままな不満をいだいてしまった。
  分断後に「北」で作られた曲なので、 「南」の人々にはイムジン河の曲は知られていない。詞とメロディーを思い浮かべて感傷的に眺めているのは、どうやら私だけのようだ。

  二つの「国」を縫い合わせるようにして、歌詞のとおり、イムジン河はとうとうと流れていた。


‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥

36.
   旅は二人三脚

 我ながら、ひねくれている。当時、ガイドブックがまだ出版されていなかった。それで、行き先をラオスに決めたのだ。妻と二人、銀婚旅行といってもいい年になっている。
 タイから陸路、メコン河に架かる国境橋を越え、トゥクトゥクと呼ばれる小型オート三輪の荷台に揺られて、ラオスに入る。首都の中心部でさえ田舎の雰囲気がただようような、落ちついた穏やかな国だ。
 ところが二日目にして、私の左足が激しく痛むようになった。何年かぶりに出た痛風の発作である。親指のつけ根が腫れあがり、かかとでしか歩けないのだ。とにかく痛い。
 なんとか動けるものの、これは、予定外の出費にもなった。そこそこの距離でもトゥクトゥクの世話になる。貸し切りでも五十円程度と、日本円に換算してしまえば安いものだろうが、ラオスの最高額紙幣が二枚必要となる金額だ。宿だって、階段のあるところは敬遠したいし、トイレとシャワーが部屋の外というのも都合悪い。宿のランクを、下から二番目にアップすることになる。
 そんな状態でも、毎日せっせと出歩いた。短い旅なので、宿で過ごすことがもったいなかった。松葉杖でもあれば、かなり楽になっていたはずだが、高望みというものだ。病院どころか、薬局さえも見つからない。頼りになるのは、妻の右肩だけだった。肩に手をやるなんて、つきあい始めた二十代のとき以来だろう。そうしてバランスを保ち、ときに体重を預け、かかと歩行を続けていた。
 それでも、次の街に移動したころには痛みもやわらぎ、なによりも、かかと歩きに慣れてしまった。妻の肩も案外いいもので、他人からは、デレデレした中年カップルに見えたかもしれない。
 ラオスは暑い。そこに冷たく、安くておいしい生ジュースが存在する。歩いていても、果物とミキサーの姿はすぐ目に入る。汗をかくたび、当然何度もお世話になる。パパイヤ、バナナ、ココナッツ。メコン河を眺めてひと休み、風を受けてふた休みと、屋台をハシゴした。昼も夜もゆったりと時が流れていて、心地よかった。
 妻の腹具合がおかしくなった。生水は飲まないよう注意していたが、ジュースに混ざった氷のことまでは考えなかった。どう構造が違うのか、私の腹は、いたって快調なのだが、妻は起きあがるのも辛そうだ。
 旅の最後は、何度も乗り換える大移動の日だ。翌朝のバンコク発、変更不可の飛行機に間に合うよう、タイの国境駅から夜行列車に乗らなくてはならない。なんとしても、夕方までに国境を通過しなければならないのだ。できなければ、帰れない。きわめて主観的に言わせてもらうなら、命懸けの大移動だった。そのときは、そう思った。
 妻は、腹の痛みに耐えかねて、体をくの字に曲げている。二人分のザックを私がかつぐ。肩では高すぎて、私のベルトにつかまって、下を向いたまま苦しそうに妻が歩く。悲愴感ただよう、またはこの上なく滑稽な二人三脚の光景だったろう。
 ようやくのこと、翌日早朝、空港に到着した。元気になっている。案の定だ。妻は、けろっとハンバーガーなど食らっている。私も、足の痛みを忘れていた。
 無事に帰って来れば、すべてが笑い話になる。今まで二人とも、旅では頑丈だった。無理がきいたはずだった。今回のことは、年齢を考えさせる警告となった。
 収入や家事のことで頼りあうことはあっても、体力のハンデを補ってもらうことになるとは思いもよらなかった。文字通り、互いに支え、支えられたのだ。ひとり旅だったならと思うと、ぞっとする部分がある。特別に礼など言わなかったが、ありがたかった。妻もそうだろう。
 構えるようなこともなく、自然に助けあっていた。してあげたとか、してもらったという感覚ではない。長く共同生活してきた夫婦として、当たり前の行為だった。むろん、感謝の気持ちは大きいが、義理や負い目、貸し借りなどという他人言葉とは無縁だ。夫婦なのだから、格好つけても始まらない。ごく普通な気持ちだった。相手の身になって自然にいたわることを、この年になって覚えたようだ。旅は大変だったが、少し「大人」になった気分だ。
 アルバムを開くと、ラオスの人々の素朴な笑顔が写っており、「サバイディー」と元気な挨拶の声が聞こえてきそうだ。あのとき、われら夫婦がどんなに苦労し、互いの存在に頼っていたかなんてことは、自分たちの写真からは伝わってこない。いくら苦しいときでも、シャッターが切れる一瞬だけは、にっこり、ピースなんかしていたからね。


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37.
   旅の重さ・旅の軽さ

  旅の良さは人それぞれです。解放感も味わえます。旅先ならではの経験もできます。風景や食べ物だけでなく、土地の人、旅の人、そして未知の自分自身と出会うことだってあります。気持ちが軽くなればアンテナの感度も鋭くなり、歩幅もぐっと広くなることでしょう。
  荷物をいかに減らして過ごすかということも、重要になってきます。荷を自ら背負って歩き回る旅では、行動半径や行動意欲はザックの重さに反比例します。身軽ならば簡単にできることが、荷が重いため、おっくうになって取り止めてしまうことがあります。面倒になって、ついつい妥協しやすくなります。その日の宿さがしだって、フットワークの軽さが、快適な安宿を見つけるための条件になるのです。
  出発前の準備段階で、持っていくか迷う物が出てきます。自分自身で荷物を持ち歩かないような旅なら、迷ったときは入れていくのもいいでしょう。歩く旅、背負う旅では、迷ったら置いていくことにします。迷うようなシロモノは、無くてもなんとかなるわけで、たいていは使わずじまいになります。旅から帰って、不要だった物の多さに気づきます。
  自分で持ち歩くことを考えれば、紙一枚だって軽いほうがいいでしょう。綿密な計画書や詳細なガイドブックは重たいだけで、かえって歩きにくいものです。荷は、どんどん減らします。短い旅も長い旅も、荷物の量が大きく変わることはありません。絶対に必要な物って、そんなにあるものではありません。余計なものを持たない生活ができることも、旅の良さです。自分にとって何が余分だったのか、旅を通してよく分かります。
  背中の荷物だけでなく、今の自分を飾っている雑多なモノも置いていきたいものです。職業肩書き。氏名年齢。経歴や住所国籍。相手に合わせた外向きの顔つきと言葉づかい。できるだけ身を軽くしてから旅立ちたいものです。いくつもモノを抱えたままでは疲れます。歩く気力が萎えてしまうでしょう。
  自信がないと、ついつい「荷物」が増えてしまいます。不安を取り除き、威厳を保つため、「荷物」から離れられないのです。それで結局、行動に支障をきたし、自分自身と出会えるチャンスもなくします。荷物が邪魔して、美しいものも見えてきません。小さな水たまりも、飛び越そうとしなくなります。汚れそうなことは、最初から避けてしまいます。
  理想を言えば、「言葉」や「思想」も置いていきたいものです。それに頼ると、視野がその範囲に限定されてしまい、小さな旅になってしまいます。金銭も含め、これらを全く持たずに旅することは至難の業ですが、せめて、余分には持たないようにしたいと思います。
  大きな「荷物」を持ったままでは、ふらっと途中で降りることは難しいでしょう。いつだって、どこにだって、自由に立ち寄れるんだってことに気づかないままです。
  「旅」に出ることも、「旅」のコースを変えることも、思い立ったらすぐに実行したいのです。「旅」の途中でも構いません。身が軽くなれば、それだけで歪んだフィルターが外れます。見慣れたはずのくすんだ景色が、本来の自然な色に戻るでしょう。
  のしかかってくる「旅の重さ」を全身でしっかり受けとめるためにも、身を軽くしておく必要があります。「旅」のスタートは、知らないうちにもう切られているかもしれません。


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38.  
   風に酔い、風に舞い

  なつかしい風の薫り。 甘く淡くちょっぴり切なく、幼い日の記憶かと錯覚させるような心地よい匂い。
  土や木や水や花。大地と森と大気。農夫や老人、母親と子ども達。それらが混然となって醸し出す「風のシンフォニー」。

  いつだって旅の途中かも知れない。

  旅をしていると、なつかしい風の薫りにときどき出遇う。そんな偶然に感謝して、安っぽく酔わせてもらうことにする。
  そのときの風には、わずかながら自分自身の 「匂い」 だって混ざっている ―そう思えれば、 空気がさらに濃くなって、景色がいっそう鮮やかになる。 自惚れている。謙虚なだけでは、旅は続かない。

  街に住んでいたときも、そんな薫りに気づくことが時折あった。
  ようやく夏が終わった日、 銭湯へ向かう近所の姉妹とすれ違い、挨拶を交わしただけの夕暮れの一コマ。
  集金バイクにまたがったまま、 ぼんやりと見つめた初冬の陸上グラウンド。
  だれだって、そんな日には素直になれる。

  不思議な場所で、その薫りに出合った。 慶尚南道、韓国の南東部になる。 鈍行しか停まらない小さな駅に降りたときから、なにか予感させる清々しい空気があった。
  古陵へ向かおうと川岸に出たときだった。辺り一面、コスモスの大群落が迎えたのだ。川に沿ってコスモスが、どこまでもどこまでも夢のように続いている。
  ところどころには古い土塀なども見え、小さな家が納まっている。 野菜をかかえた女たちが通り過ぎる。その後ろを裸足の幼児が追いかけていく。 水は大きく、ゆったりと流れている。このゆるやかな時の流れが、すべての薫りの源になっているのだろうか。なつかしいその薫りに、全身をゆだねてみる。

  旅人は、風に酔ったようだ。 彼は臆病さから解放され、 おやおや、 異国の人々に自分から話しかけている。 片言の異国語でも通じているようで、美しい笑顔が返ってくる。 母親が何か話しかけてくるが、それは全く分からない。そのことを告げると、また笑顔が返ってきた。言葉は異なっていても、同胞であるという想いが強くなる。
  いつのことかは分からないが、記憶の中にこの薫り、しかと有る。 生まれる前のことかも知れない。 あなたたちとも、どこかで逢っている気がする。
  同じ風の薫るこの地にも生活がある。歴史があり、人生がある。 偶然そこで出逢ったあなたたち。 あなたたちのその笑顔ひとつが、心細い旅人をこんなにも晴れやかにさせてくれる。

  この薫りとつぎに出合えるのは、いつだろう。 そんなとき、 迷いこんできた臆病な旅人を、そのまま素直に酔わせておいてほしいのだ。 旅人はしばし、有頂天で舞うだろう。


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39.
   俺達のほしいものは/芭蕉の里/平原暮色/道―MICHI―/少年

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